ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

毎日更新されたりされなかったりする日記

合唱人の悲しい性

こんばんは、ヨン様です。

東日本を中心に各地で台風の影響が出ているようですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。 このブログは、残念ながら災害時にはクソの役にも立ちませんが、陰ながら皆様と皆様の知人のご無事をお祈りしております。

ところで、合唱人というのは何でも合唱にしないと気が済まない人種なのではないかというのが、私の最近の疑念であります。 かく言うシュビドゥヴァーズも、サブカル合唱曲を中心に男声合唱編曲を歌うというのが基本的な活動ルーティンになります。

しかし、サブカル曲を合唱で演奏することにどれほどの意味があるのでしょうか。 アニソンなどのサブカル曲は、それ自体で完成された音楽作品なのだから、わざわざ「編曲」などという暴力的行為を通じて四声体やピアノ伴奏に押し込める必要もないような気がします。 合唱編曲をすると、大抵アルトとかバリトンとかの内声が割を食って、メロディーとは似ても似つかない意味不明な半音階進行や同度連打を強いられることになります。 「それが好きなんだよ」という方は、気持ちは分かりますが、だいぶ末期ですので少し黙っていてください。 非合唱人の音楽愛好家はそんな苦行を望んでいないわけで、歌うだけならカラオケでも問題ないのです。 分かりやすいメリットと言えば、アコースティックな(非電子的な)編成だけで和音を伴った演奏ができることや、ステージ上で演奏することで作品の共有が可能になるといったところでしょうか。

編曲によって非合唱曲を合唱化させてしまうというのは、まだマシなほうかもしれません。 なぜならば、オリジナルの作品も一応音楽作品であり、加工後の形態と比較的近縁な関係にあると言えそうだからです。 ところが、最近はマスコミやSNS上のバズワードを見境なく拾って合唱の作曲をしてしまうという活動も増加傾向にあります。 これはさすがに、他の業界から「節操がなさすぎる」という批判の声が聞こえてきそうなものです。 合唱にすることの合理性をどなたかにご説明いただきたい、と。 大阪人は何でもソースをかければ料理が美味しくなると思っているとウワサに聞いたことがありますが、合唱人は何でも合唱にすれば音楽が素晴らしくなると思っているに違いありません。

こういったことを考えていくと、「合唱で歌う」ということは何も「オリジナルをより素晴らしく翻案する」ということを意味しないということが見えてくるように思います。 「合唱で歌う」ということは、ほとんど合唱人の自己満足なのです。 中にはソースをかけることで食味が損なわれる料理があるように、「合唱で歌う」ことによって魅力が損なわれる楽曲もいくらでもあります。 シュビドゥヴァーズがサブカル合唱編曲活動にためらいを持たないのも、何か高尚なことをしているという自負があるからではなく、単に自己満足であることに開き直っているからかなと思っています(他のメンバーの意向は細かく知りませんが)。

では、合唱化することはおよそ自己満足的な翻案になってしまうのだから、そんなことはするべきではないという話になってしまうのでしょうか。 それもちょっと違うような気がします。 自己満足には、見る人を楽しませたり見る人の共感を呼ぶものも一定数あるからです。 サブカル曲の合唱編曲も、バズワードの合唱作品も、それをあえて合唱というスタイルで演奏することは合唱人のエゴだとしても、それを普段合唱を聞かない、あるいは合唱を知らない人が楽しむということは、十分にありえることですし、合唱人のエゴでもありません。 もちろん、そういった作品を他の合唱人同士が楽しむということも、内輪ノリの自己満足というところからは離れたものです。

以上のことを踏まえると、自己満足とエンターテイメントの両立というのが、穏当な目標ということになるように思います。 もちろん、その結果として合唱人口が増えるとか、合唱の魅力が広まるとか、そういったことも起こる可能性があるので、そのようなチャレンジングな目標を設定することもありうるでしょう。 そのへんの塩梅が各団体の個性につながってくるのかもしれません。

というわけで、合唱人というのは何でも合唱にしたがるけど、それは自己満足である一方、全てがエゴだというわけではないというお話をいたしました。 書き終えてみればなんだか壮大な内容になってしまった気がしますが、怒り出す人がいないことを願います。

それでは!