ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

毎日更新されたりされなかったりする日記

「楽典」と「浄書」の違いについて

こんばんは、ヨン様です。

例によって隔週更新のようになってしまいましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。 忙しいからと言っていてはブログの更新は始まらないので、今日は「楽典」と「浄書」の違いについて簡単にまとめたいと思います。

「楽典」というのは、簡単にまとめると「(西洋音楽の)記譜における規則、およびそれに関連した理論的知識」というようにまとめられるかと思います。 一方、「浄書」というのは「清書」と同じような意味で、「読みやすく譜面を整える作業」のことを指します。

「楽典」というのは、言語でたとえるならば「正書法」に相当すると言えるでしょう。 当たり前のことですが、音声としての実態をもつ言語とその文字表記との間には、一定の規則性があるとしても、多くの場合ずれがあります。 日本語の場合、例えば助詞の/wa/は発音通り「わ」と書かずに「は」と書きますし、「書く」を勧誘の意味で言うときは「書こお」ではなく「書こう」です。 これらの例では、実際の発音と表記の間にずれがあることになります。 また、「続く」のかな書きは「つづく」であって「つずく」ではありませんし、「縮む」も「ちじむ」ではなく「ちぢむ」です。 これらのケースでは、複数ありうる表記に対し、どちらか一方の表記が選ばれていることになります。 今見てきたような語の場合には、「このような場合には、こちらの表記を採用する」といった規則と、それを理解するための最低限の言語的な知識(助詞とそうでない品詞の区別など)がなければ表記を決定することができません。 このような、「ある語に対してどの表記を採用するか」という規則や規定が正書法です(日本語の場合、漢字を含めた正書法は確定されているとはいえない状況にありますが、仮名遣いに関しては、おおむね書記の規則が確立されていると言えます)。

以上のような表記の選択は、歴史的な経緯や弁別性など、さまざまな要因が絡んで現在のような形に落ち着いているのですが、楽典にも似たような事例があります。 例えば、移調楽器においては、実音と楽譜上の表記をずらして記譜する習慣があり、B♭管のトランペットは楽譜上のC音が「B♭」に、F菅のホルンでは楽譜上のC音が「F」になります。 これは日本語における助詞「は」の表記の問題に似ています。 あるいは、平均律においては「異名同音エンハーモニック)」と呼ばれる音の組み合わせが存在し、「F#」は基本的に「G♭」と同じ音高を表し、「C」は「B#」と同じ音高を表しています。 これは、日本語における「つづく」などの表記の問題と類似していると言えるでしょう。 いずれも楽器や楽理に関する歴史的な変遷に起因するもので(移調楽器は楽器の持ち替えの歴史から、エンハーモニック純正律から平均律への変化から、それぞれ生じたもの)、音楽の正書法である楽典とそれを理解するための知識(どの楽器が移調楽器か、など)がなければ、表記を決定することができないと言えます。

では、「浄書」とはどのようなものでしょうか。 この場合も、言語の例が役に立つかもしれません。 例えば、「は」という仮名は、どのような大きさで書いても(「」)、どのようなスタイルで書いても(「」)、どんなにくずれた手書きの字体であっても、一定の形態的特徴さえ備えていれば、仮名の「は」であると認識することができます。 このような、具体的な書記の場に左右されない文字の単位を「文字素」と呼ぶことにしましょう。 正書法は、特定の書体で書くことを想定していない抽象的な規則なので、いわば「文字素」の規則であるということができます。 それに対し、任意の仮名「は」をどのような大きさのどのような書体で、どこに配置するのかという問題は、いわば「は」という文字素とは(したがって正書法とも)直接関係のない、文字の視認性やデザイン性にかかわる問題です。 これが清書やタイポグラフィーといわれる分野が扱う文字表記の問題であり、楽譜で言う「浄書」の領域に相当します。 したがって、「浄書」というのは楽典的に正しいことが前提となっている楽譜について、その表記上の整理を試みるという作業になります。

楽譜というのは、文字に比べて図像的性質の強い表記体系なので、だいぶ事情は異なりますが、基本的には文字の清書において注意が払われる点については楽譜の浄書においても問題にされると考えてよいでしょう。 例えば、四分音符「♩」は、どのようなフォント、大きさ、粗雑さで書いてあっても、一定の形態的特徴を備えていれば四分音符であると認識することができるので文字素(音符素?)に相当する単位を表すことが可能であると言えます。 そのうえで、使用するフォント、大きさ、音符間の衝突回避などに配慮する必要があるわけですが、この点は文字表記と基本的に同じです。 文字と音符(楽譜)の場合で大きく異なるのは、おそらく後者がより時間経過に忠実であるという点でしょう。 音楽においては、言語よりも時間的な拘束力が高く(例えば、言語において1分間における音節の数が指定されることはほぼないが、音楽においてはしばしば1分間における特定音価の数が指定される)、それを初見演奏などの高度な認知・実演能力を駆使して実行することが求められます。 このような性質もあり、楽譜の表記は総じて時間的展開に関しては文字に比べてはるかに敏感だと言え、松葉型のクレッシェンドなどは、持続時間に応じて伸縮するという(一つの表記単位としては特異な)性質を有しています。

以上のような概観から、おおむね「楽典」と「浄書」の違いについては整理できたでしょうか。 例えば「異名同音」などの使い分けは、初学者にとってなぜ複数の表記があるのか理解しがたい点の一つであり、「浄書」や好みの問題と誤解されることも多いように思われます。 しかし、無調的な場合など一部の例外を除き、調性音楽ではどちらの表記を採用するか一義的に決定できる場合がほとんどです(詳しくは楽典や和声の本を参照していただければと思いますが、多くの場合借用した調の音の表記を採用することになります)ので、これは「楽典」に属する問題だと言えるでしょう。 「D-F#-A」のような和音を、「D-G♭-A」と表記するのは、音としては同じでも、「つづく」と書くべきところを「つずく」と書いているのと同じような問題を抱えていることになるのです。

というわけで、「楽典」と「浄書」に関するまとめでした。 不正確な記述があるかもしれませんので、その点については顕学の教えを乞いたく存じます。

それでは!