ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

毎日更新されたりされなかったりする日記

映画版キャッツをとりあえず批判しとけばいいとか思ってるタマネギ野郎

エスです。ちょっと前ですが映画版キャッツを字幕で見たのでそれの感想などを書こうかと思います。
自分はロンドン公演版を舞台で見て、そのあと映像版を穴が開くほど見て覚えたクチで、劇団四季のものは見たことがありません。なので日本人の一般的なキャッツファンとはまた違った意見になるかもしれませんのでご承知おきを。
あと見た人、もしくは知ってる人向けの要素が強いのでこれから見ようとしてる人にはあんまり参考にならないんじゃないかなと思います。まあこんな場末のブログ見てキャッツ見にいことか思う人そんなおらんやろうしええか。

前にトゥギャッターとかで映画版キャッツが散々にこき下ろされたまとめを読んでたのでどんなもんかと思って行ったら、想像より全然良かったです。タマネギとか言ってたやつは誰だ?
良かったところと悪かったところ、それから評価とは無関係な個人的な拘りをそれぞれ挙げていこうかと思います。




■良かったところ

☆ストーリーとキャラ仕立て
感想を漁る限り「ストーリーが薄い」というのが散見されますが、そもそもキャッツにストーリーらしいストーリーはほとんどありません。キャッツの魅力はそこではない。「ストーリーがないからダメ」とかいうキャッツのことを何もわかってないふざけたタマネギ野郎は硫化アリルでも飲んどけ。
舞台においては見に来た人間が舞台の上の猫たちの神秘を垣間見るような作りになっていますが、映画で同じようにするのは困難で、そこをヴィクトリアを主人公として再構築することで映画として作り直したことがまず第一ポイントです。
ヴィクトリアは舞台ではグリザベラに最初に触れる役目を持った白く美しい猫で、個人のナンバーはなく、主にダンスを担当しています。ジェミマという子猫がグリザベラの「memory」を歌い継ぐのですが、映画版ではヴィクトリアに統合されてます。
他にも役割の統合や再編されている猫は多く、語り手のマンカストラップはより語り手、リーダー猫として目立つ位置になっていますし、ボンバルリーナ(と、マンゴジェリー&ランペルティーザ)などはマキャベティの相棒の立ち位置に変わっています。マキャベティはよりストーリー上で相対すべき悪役としての立ち位置が強なっており、それに対抗する気弱で臆病なミストフェリーズ、という対比もまた良い。それぞれストーリーの分かりやすさの為に再解釈、或いは猫の視点から見た彼らが表現されているのが分かります。というかミストフェリーズめちゃめちゃ美味しい役どころですよね。
舞台の映像化ではなく映画化なので、これでいいんです。「○○が映画化、アニメ化、舞台化、漫画化」みたいに媒体が変わるとき、その媒体に合った表現や解釈に変え、今までリーチしていなかった層に届けるのがこういった事業のキモなので(もちろんそれは最終的な利益が出ることが最低ラインではありますが)、私はこうした再解釈には賛成したいし応援したいところです。


☆曲
アレンジや書き下ろしの新曲が良かった。前述の通りヴィクトリアはダンス主体の猫なのでナンバーがなかったのですが、今回主人公役になるにあたり捨て猫や子猫属性、外様の猫であるといった要素が追加され、それに合うように新しい曲が書き下ろされました。この属性とこの曲があることで、よりヴィクトリアがグリザベラに触れジェリクルキャッツへ導くことの説得力が増します。
あと大幅なアレンジがあったのはスキンブルシャンクスのナンバーですね。舞台版から比べタップダンスが追加されたことで、より「鉄道猫」らしさが出ました。
どの曲に限らずとも、やっぱみんな歌めちゃうまだよな……



■悪かったところ

☆神秘性の欠如
前述しましたが、『キャッツ』舞台は見に来た人間が舞台の上の猫たちの神秘を垣間見るような作りになっています。パントマイムや群舞のシーンも多く、現代のミュージカル舞台と比べると伝統的でクラシカルな面が強いことも それを後押ししています。
そこにはそれぞれの猫の尊厳があり、威厳があり、神秘があります。ストーリーがないというより、彼らの中ではストーリーがあるが、我々人間には神秘に隠されて窺い知ることしかできない、というのが正確なところでしょう。 猫という不思議で神秘の生き物、彼らが何をしているのか、それを分からないなりに一端に触れて想像を巡らす――キャッツはそういった楽しみ方をする作品です。
映画版はより等身大の猫が描かれており、分かりやすくなった半面その神秘性は薄れてしまいました。マキャベティなんかはそれが顕著で、ちょっと俗物というか、小物っぽくなってしまった部分があります。ストーリー仕立てとの両立が難しい部分なのでしょうがないとは思いますが……

☆映像の見せ方
ここは地味に大きいポイントかなと個人的には思っています。
具体的には、
・群舞のカメラワークが近すぎる、もっと全体を映してほしい
・ジェニエニドッツのゴキタップ、リアルにする必要あった?
この二点かなーと。
特にジェニエニドッツに関しては、「私はこういう猫だよー」って紹介をジェリクルナイトで行うって設定なので、舞台版のように他の猫がゴキとかネズミに仮装して踊るとか、映画版では本筋と関係ないから省略されたランパスキャットのナンバーみたく、あくまでも他の猫が演じるという方向性な方がストーリーとしての通りが良くなったんじゃないかと思います。
映画版でも例えばアスパラガスのシーンは(ミストフェリーズの力を見せるという意図もあるとは思いますが)あくまでもジェリクルの舞台上で完結していたのでそっちの方向でいけなかったのかなあと。そういえばジェリーロラムとかほぼ完全なモブ猫になってたよね
それ言うとスキンブルシャンクスの舞台が汽車になるシーンなんかはどうなのって話なんですが、あれはあれでけっこう好きなのでうーん。まあ舞台で猫たちが適当な部品を持ち寄って汽車を模したオブジェを作るシーンの方が好きではある。どっちも好き。

☆最後のオールドデュトロノミーのカメラ目線
いやーこれね、舞台だと客席の人間たちに向けて歌うナンバーなんですけど、舞台だと猫の世界を垣間見る人間って構図になるのに対して、映画だと猫の世界そのものを映してるところに強烈なカメラ目線の違和感がすごい。舞台はしばしば第四の壁を破る手法を使うのに対して、映画はあんまりないしあってもかなり特殊じゃないですか。ストーリーの作りとそこの整合性が取れてなかったのが厳しいところありました。






■個人的な拘りポイント
どうでもいいので読み飛ばしてもいい箇所です。一番語りたい部分だけど。

ラム・タム・タガーはミックジャガー風じゃないとダメなんだよ!!!!!!

タガーのカリスマがない! どういうことだ! 俺はあの跳ねっ返りのロックスターが大好きなんだよ!! オールドデュトロノミーにも敬意は払ってるけど彼なりの敬意の払い方だったり、マキャベティの襲撃後ミストフェリーズに頼もうって言いだすのが彼だったり、そういうのがいいんじゃねえか!!!
舞台版だとミストフェリーズは自分のナンバーを自分で歌わないんだけど、唯一声を出すのがラム・タム・タガーのナンバーだったりするのが……そういう……物静かなミストフェリーズと騒がしいタガーが信頼し合ってるとか……そういう……わかれよ!!!!!!!!!
いや映画版も歌はうまかったけどさ! そうじゃないんだよ! カリスマの問題なんだ!!!!!!
まあ……そりゃさ……マンカストラップにリーダーの役目を集約させるにあたってスポイルされるのはさ……わかるよ……うん……









結論:舞台版を見ろ。劇団四季でもいいし映像版ならプライムビデオで安く見られる。15年前だけど全然古臭くない。