ザ☆シュビドゥヴァーズの日記

毎日更新されたりされなかったりする日記

なぜフィクションにおいて「帝国」は悪者なのか?

こんばんは、ヨン様です。

本日と昨日、シュビドゥヴァーズの練習が行われました。 昨日は再び3人2パート(トップ・セカンド)という悲劇に見舞われましたが、今日はそこそこの人数が集まった(らしい)です。 残念ながら私は仕事の都合で参加できませんでした…。 割といつものことですけどね!

さて、本日はフィクション作品における「帝国」のステレオタイプイメージについて考えてみたいと思います。 皆さんは、フィクション作品で「帝国」と冠する国家が登場した場合にどのようなイメージを持つでしょうか。 統計的なデータを取ったわけではないのであくまでの印象論にとどまりますが、大抵の場合、フィクション作品における「帝国」というのは“悪者”のイメージ、あるいは少なくとも主人公側と対立する勢力として描かれることが多いように思われます。 簡単に思いつく例をいくつか挙げてみましょう。

事例1:銀河帝国 vs 銀河共和国(映画「スター・ウォーズ」シリーズ)

事例2:土鬼(ドルク)帝国 vs トルメキア王国(漫画「風の谷のナウシカ」)

事例3:暗黒グノッシーナ帝国 vs シュビドゥヴァニア連合王国PS3ソフト「ソング・オブ・サブカルチュア 2」)

事例1は、言わずと知れたSF大河映画の傑作、「スター・ウォーズ」シリーズに登場するものです。 アナキン・スカイウォーカーを主人公とするエピソード1から3では、シスの暗黒卿ダース・シディアスが奸計によりジェダイの騎士を追放するとともに銀河共和国の議会において絶対的な権力を手中に収め、ついには銀河帝国の皇帝にまで上り詰めるまでの物語が描かれます。 主人公(アナキン)が「ダーク・サイド(暗黒面)」に堕ちて帝国側に回ってしまううえ、厳密にはその後のエピソードで「銀河帝国 vs 反乱軍」という戦いの構図になっているのですが、「帝国」は暗黒卿に支配された悪逆非道な国家として“悪者”の扱いを受けています。

事例2は、宮崎駿による「風の谷のナウシカ」の原作漫画に登場する国家です。 映画ではトルメキア王国しか登場しないので、存外知られていないかもしません。 原作となる漫画版では、土鬼(ドルク)帝国という諸侯連合国家が登場し、その皇帝(皇弟)ミラルパは超常の力と宗教によって民衆に圧政をしいています。 ここでもやはり、「帝国」は“悪者”の扱いです。 一方、対立勢力であるトルメキア王国は、映画と同じく主人公のナウシカの属する小国の同盟国として登場します。 ただし、トルメキア王家の中心部では王位継承権争いに絡んだ不気味な権謀術策が渦巻いており、決して分かりやすい正義として描かれているわけではない、といったところもポイントでしょう。

事例3は、これまた有名な大作シュミレーションRPG「ソング・オブ・サブカルチュア」シリーズのナンバリング第2作にあたります。 本作では、幾多の戦争によって「歌の力が失われた世界」において、失われたはずの歌の力を宿した少女と主人公がシュビドゥヴァニア王国の辺境の地で出会うところから物語が始まります。 少女と旅をするうちに、世界から歌の力が失われた原因が明らかにされていきますが、世界の秘密に迫る主人公たちの冒険は、思いがけず暗黒グノッシーナ帝国とシュビドゥヴァニア王国との歌の力をめぐる戦争へと巻き込まれていきます。 物語の中盤で、主人公は帝国側につくのか、王国側につくのかという大きな決断を迫られますが、この選択肢で迷ったプレイヤーの方も多かったのではないでしょうか。 今ではすっかりおなじみの「旋法システム」が導入されたのも本作です。 純粋な“悪者”と言えるのか判断に迷う部分もありますが、グノッシーナ帝国は崇高な理想を持ちながらも覇道をいく国家として描かれており、ここでも「帝国」に対するステレオタイプ的なイメージが垣間見えます。

さて、ここまで「帝国」という名を冠する国家に対するステレオタイプイメージを見てきました。 少なくともここで挙げた事例を見ると、「帝国」というのはフィクション作品において“悪者”として登場することが多いように思われます。 では、なぜ「帝国」にはこのような“悪者”のイメージがつきまといやすいのでしょうか。

推測するに、これは「帝国」という政治システムと大きくかかわっているように思われます。 「帝国」というのは、一般的に「複数の民族・諸侯を統合する君主制国家」を指します。 西洋において最も典型的と言える「帝国」であるローマ帝国は、イタリア半島に居住するローマ人のみならず、イベリア半島から中央ヨーロッパ古代オリエントに至る広範な版図と領民を有する多民族国家です。 また、東洋において皇帝をいただく中国歴代王朝も、大陸内のさまざまな少数民族のみならず、宗主国として多数の属国を従え、事実上の多民族政治体制を保持してきました。 つまり、「帝国」という国家体制は、定義からして多民族性・異種性を内包していると言えます。

帝国の多民族性・異種性を内包する広大な版図を維持するためには、名目上の統合だけでなく、宗教や政治による思想上の統合が必要になります。 そして、そのような統合に反対する勢力は、場合によっては国家内の結束を高めるために厳しく弾圧しなければなりません。 従って、「帝国」という国家体制は常に多様化と画一化のバランスをとることを迫られるものであり、常に差別や格差と隣り合わせにあるのです。 強大国家は、大規模なインフラの整備や文化交流という点で歴史上きわめて重要な役割を担ってきた半面、構造的な階層差の温床ともなっていたと言えます。

「帝国」に対する“悪者”のイメージは、このような点に由来するのではないでしょうか。 広大で多様な要素を有する「帝国」の内部には、帝国によって制圧された勢力や統合に反対したために弾圧された勢力が少なからず存在するものです。 物語をドラマティックに描くため、主人公をレジスタンス(反抗勢力)に仕立ててヒロイックに描きつつ、「帝国」が持つ上述のような「強権のもとに圧政と差別を断行する国家」というイメージを利用するのが構図として分かりやすいというのは、想像に難くありません。 物語を対権力抗争として描くにあたり、「帝国」という国家体制は格好の装置になるのです。

以上、フィクションにおいて「帝国」が“悪者”として扱われがちな理由について考えてみました。 なんと日本は現代で唯一「Emperor」を有する国であり、「Emperorを有する国家」として、ついこの間まで「帝国」を名乗っていましたので、「帝国」に関する問題は日本という国家と地続きの話だったりもします。 また、国家を超えた政治・経済体制であるEU連合や、多民族国家であり他国の問題に積極的に介入するアメリカなど、「帝国」ではなくとも「帝国的」なものは現代にも存在します。 暗黒グノッシーナ帝国とシュビドゥヴァニア連合王国の争いについて考えることは、明日の世界について考えることなのかもしれません。

それでは!